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龍山神社の秋祭りは、毎年10月15日に近い
土、日曜日に行われています。

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このページの公開にあたり佐用町の郷土史・佐用史や佐用広報誌など色々な書物の文章を
引用さして頂いていますので、この文面を持ってお詫び、ならびにお礼を申し上げます。
尚、そのような資料では神社の名称が「竜山神社」となっていましたので、
「龍山神社」と書かず、本文章にはそのまま「竜山神社」を引用しています。

最新更新日2024年08月09日

提灯 竜山神社の社殿を訪ねて・・・・郷土史を語る
提灯 龍山神社の鳥居に関する資料・・令和4年更新
提灯 祭り本番スナップショット(各画像は・50KB)
提灯 昔話いろいろ・・・・竜山神社建立のいきさつ
提灯 神社庁に記録されている、龍山神社の祭神とは
提灯 大屋台(太鼓台)・・・・・についての豆知識


竜山神社の社殿を訪ねて・・・郷土史を語る

社殿画像 どの市や町にも、その土地にふさわしいお宮やお寺がある、赤穂の大石神社や花岳寺、姫路の総社、明石の人丸神社などが、人々によく知られています。
 佐用の龍山神社と常徳寺は、佐用の郷土史との関係も深いし、これから発展する佐用の名所として、創建以来の歴史を調査し、それに伴う佐用の歴史を研究するなどして観光価値を高めたい。
 竜山神社は、通称佐用の権現(ごんげん)さんとして知られている。
 鎮座の山の名を蛇(じゃ)の尾というところから、この社名が出来たのであろうか?
 佐用の新町、上町、中町、川原町、栄町の四百戸(現在は新町、上町、中町、川原町、山王、栄町の6町で約四百五十戸ある)の氏神様でり、この竜山神社の正確な創建年代はわからないが、文政年代まで小さいお宮があったらしい。
 現在の拝殿(上の写真)は大きく堅固なものであるが、(右の写真)手前の赤い鳥居は、お稲荷さんで、奥に見えるのが龍山神社の社殿である。彫刻も実に立派で、堅固な総ケヤキ造りで壮麗な本殿である。
 神社の棟札(むなふだ)には、文政七年(1824年)と書かれており、本殿東の瑞垣にも同じ様に、「文政七甲申(きのえさる)五月吉日」と刻まれている。今年(令和六年)から数えて二百年前の建立である。
 その当時、佐用には本陣の岡田という大庄屋の豪家があって、この岡田家が神社建設に財産の半分を費やしたと伝えられている
神殿画像
 
現在の参道も石段も、その時に作られたものであり、あのとがった山上を掘り崩して、現在のような平地にするにはずいぶん費用も使ったであろう。
 尚、棟札には代官所役人・大島屋幸尚を筆頭に、岡田光顕、岡田光隆、岡田光定、平田正興、福岡重之、福岡重良、福岡政秀、世話人・中島屋喜兵衛、赤穂屋庄八郎、津山屋平兵衛と書いてあり、当時、これらの人が佐用の有力者であったのであろう。
 拝殿には平福の学者・神吉弘範のこの神社を歌った長歌の額、文政八年の夏祭りに岡田光良ほか九人の短歌の額があり、これらには「蛇尾山大御社広前夏祭分題十首倭歌」と題書きし、立派な十人の和歌が書いてある。
また、法橋義信の馬の絵など、貴重な奉納額が揚げてある。
参道画像  この神社は佐用の市街地に近く、鎮座地として申し分ないが、参道が急なのと石段が高いので(現在は国道179号線のバイパス工事の為、前よりいっそうきつくなっている)、婦人や子供、老人には上まで登れない事が多く、参拝者は登り口の神門(山門)のところで拝んで帰る為、あの大きく堅固な社殿や総ケヤキ造りで壮麗な本殿等を見ることが少ない。
 出来れば、参道の石段の数を増やして上がりやすいようにしたいものである。
 毎年十月十五日に近い土曜・日曜日の秋祭りには御輿(みこし)、大屋台(おおやたい)、小屋台(こやたい)、子供樽御輿(こどもたるみこし)等、繰り出し練り歩く様は実ににぎやかで威勢がよい、是非時間が許すようであれば、このページを見に来られた貴方の秋の行事予定の一つに、”龍山神社の秋祭り参拝”を入れて欲しいものである。

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==龍山神社の鳥居に関する資料==

鳥居破損画像
経年劣化で壊れた鳥居
鳥居年号  以前、龍山神社参道入口にあった鳥居の北側柱には、「文化六 己巳年八月吉日」と刻まれており、西暦1809年に建立された鳥居と思われます。
 その鳥居は、昭和49年頃に行われた国道179号線のバイパス工事により、石灯籠などと共に、現在の場所に移設される。
  その後、令和4年4月末に経年劣化により、真ん中の貫(ぬき)が自然落下して見つ
かり、他の部分が倒壊寸前で危険な状態となる。急遽、臨時宮総代会を開き協議の結果、寄付などを募り再建を目す事になる

再建鳥居の竣工清祓の神事
再建鳥居の竣工清祓の神事
 竣工清祓(しゅんこうきよはらい)の神事が行われた12月27日は、令和4年最後の「寅の日(とらのひ)」と言う日で、「虎は千里を行って千里を帰る」とい事から勢いがある、縁起の良い吉日に神事が行われました。

渡り初め鳥居画像
寄付者芳名板と令和の再建鳥居

芳名板の詳細画像 詳細画像
鳥居再建の寄付者芳名板
 寄付者芳名板は、梅雨入り前に御輿蔵内に移設され、外枠のみ
社務所東南の参道脇に移され、掲示板とし利用されています。

夕暮れの完成鳥居画像
夕暮れ時に、白くそびえる再建鳥居

再建鳥と参道階段
令和の再建鳥居を交差点から見る
 初詣は、気持ちを新たに龍山神社の再建鳥居をくぐりませんか

御旅所の門松
御旅所の迎春準備
 数年前から、杉の葉と梅結びで飾り付けしている御旅所の門松

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祭り本番スナップショット(各画像は..50KB)

本番に向け1ヶ月前から猛練習をしています。
練習1画像


数日後の本番に向けて屋台蔵で仕上げ練習。
練習2画像

本宮の昼、大屋台が神社に宮入の晴れ姿。
本番1画像

大屋台と御輿がそろって駅前で練り合わせ。
本番2画像

担ぐ練り子の気持ちが一つになって!
本番3画像
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昔話いろいろ・・・竜山神社建立のいきさつ

 元禄(1688〜1704年)のはじめごろまで、佐用村(現在の上町・中町・川原町・山王・栄町・新町の地域のことを指していると思われる)も佐用都比売神社の氏子であった。
 今、佐用都比売神社に所蔵されている古文書の中に、佐用村百姓一同の連印で神社奉行に出した訴状がある。
 直接の訴因は、佐用姫大明神の鍵取りで○○○村の庄屋藤助が、佐用姫大明神の神田の上がり米を着服しているのでそれを明瞭に
したいということで、七ヶ条の不正を申し立ている。
 ところがこの訴状が神社奉行へは行かずに、長谷領の代官の手に残されていた。
 これには大きな原因がある。それはずっと以前の文禄検地に端を発しているんだが、本位田村と円応寺村との村境が、 佐用姫大明神の境内の中を通っていた。即ち佐用姫大明神の本殿は本位田村の地内にあるのに、拝殿・舞殿などは円応寺村の 地内になっていたのである。
 佐用郡が全域一人の支配者の治下にあった時代には、それは問題にならなかったけれども、松井松平氏によって次々と分割統治をするようになったとき、 本位田村は長谷領に編入しられ、円応寺村が佐用領に成ったことで、領分境が佐用姫大明神の境内をはっしていることになった。
 以来ここにいうところの領分争いが起こる事になったのである。
 元来他領といっても、領主は兄弟の間柄なので、これが表面化することもなかったらしいが、長谷領主久之亟康納は、この佐用姫大明神に執着があって、 鍵取り藤助の後ろに長谷領の代官が付いていたことを、この訴状の中ではっきりと書いている。
 佐用領主と長谷領主との間では、すでに暗黙の了解はついていたのか、この訴状が長谷領主の手によって、握りつぶされる結果となった。
 いつまで待っても何の音沙汰もない訴状の行き先を知ったとき、佐用村の人々は佐用姫神社の氏子離脱を決意し、それから百余年を
経て、寛政七年(1795年)字蛇ノ尾にあった竜山神社に大修理を加えて、正式に佐用村の氏神とした。これが今の竜山神社なのである。
 本殿の華麗な結構を見て、これが明治のはじめに無格社となっていることに不審を感じない人は少ないと思うが、こうしたことを知ってみると、それもいたしかたのないことであったのだろう。
 二百段近い急峻な石段は、なんといっても足が疲れる。
色々な彫刻でうづめつくした美しい社殿を取りまく古木の、風情のすぐれた木の間から、透かして眺める沖田平野の眺望は、拝殿正面
に揚げられた神吉弘範の長歌の額が、見事に描きつくしている。
 ※佐用町の郷土史の一編”竜山神社と神吉弘範の歌額”より引用

蛇ノ尾の山上には、享和9年(1724年)建立の石灯籠があり既にそのころには、氏神様として祀られていたと思われる。

*令和02年04月「情報の更新(石段の数200段)
 佐用で活動されている「コバコ」の関係者が、龍山神社の石段 の数を道路から拝殿まで数えておられます。・・ご苦労様でした。
     
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■神社庁に記録されている、龍山神社の祭神とは

1)「主祭神」は高龗神(たかおかみのかみ)
 高龗神の元となる淤加美神が祀ってある総本宮は、奈良県天理市にある大和神社(おおやまとじんじゃ)内摂社の、高龗神社(たかおかみじんじゃ)で有ると言われており、全国で五百カ所以上に分霊されている。日照りが続くと雨乞いの祈雨祈願、大雨のときは洪水を恐れ止雨を祈願をしていた。  
【原義・御利益】
 龗(おかみ)と言う漢字は龍を表す古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されている。お祀りしている神社は、京都の貴船神社や、津山の貴布禰神社、山崎の雨祈神社など多くの神社があります
 龗(おかみ)神は、雨や雪の水量をつかさどる水神で、高龗神と対をなす闇龗神がおられます。その、高龗神(タカオカミ)の「高」は、山の上に降る雨をイメージしたものです。対して、闇淤加美神(クラオカミ)「闇」は峰の間を流れる谷川の水量をイメージしたものだそうです。その様な、高龗神である水神の龍が山の上の祀ってあることから龍山神社と言われるようになったと考えられる。
 
2)「配祀神」火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)
 神産みにおいて、イザナギ(伊邪那岐命)・イザナミ(伊邪那美命)から生み出された最後の御子神。火を司る神。誕生の際に、火の神だったためにイザナミの陰部に火傷を負わせてしまい、それがもとでイザナミは死んでしまう。後に、それを怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で切り殺された。
【御利益】
火を司る=火をコントロールする神である為、土地に祀る事で防火の御利益を受けることができた。火之迦具土神は古来、金運や招福、あるいは防火の神として篤く信仰されています。

3)「配祀神」須佐之男命(すさのおのみこと)
 最初は牛頭天王信仰が始まりで、明治の神仏分離令により牛頭天王を須佐之男命に改められて、疫病などの災いごとからの守護神として祀っている。
 京都の祇園祭で有名な八坂神社や、祇園博多山笠で有名な博多の櫛田神社も同じ祭神をお祀りされている
 スサノオ(スサノオノミコト、歴史的仮名遣:スサノヲ)は、日本神話に登場する神である。『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、速須佐之男命、須佐之男命、『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記されている。
【御利益】
水難、火難、病難除去、五穀豊穣だが、牛頭天王信仰の時代は、疫病神を鎮め退散させる祈りが行われていた。

※何故か、菅原道真も祀られていることになっているのには・・?
   「兵庫県神社庁」の検索で、龍山神社の氏神様を調べる
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大屋台(太鼓台)のについての豆知識

このページの作成にあたり「神輿師 河 野 敏 信」氏に御協力いただきました。

屋台(太鼓台)の各部名称
名称画像


総角結び結び方

ネット上にあった”総角結び”の
結び方データを拝借
説明書

ぎぼし
屋台の一番高い位置に着いている帽子のような飾りもの
呂盤(ろばん)
これも高い位置に着いているもので木の彫り物で出来ているものと
金物でメッキなどを施して出来ているものなどがある。
紋(もん)
屋台の紋は各神社の紋であったりその屋台の担当地区の紋を付けたりしている
別にそのような決めごとがないときは梅鉢や三巴などを使用する。
屋根の色
そのまま木の地に何も塗らないで行くか屋根全部に黒く漆を塗るかになる
狭間(さま)
屋根のすぐ下でここに木の彫り物が入る家などでいう欄間のようなもので
非常に高価なもので人物が施されたものだと1つだけで一千万を越えるものがあり
四角に入れると四千万を軽く越す。
水引幕(みずひきまく)
これも装飾品で通常の幕と違い立体的な刺繍が施されます
高欄掛け(こうらんかけ)
屋台の巡行時、太鼓の叩き手などが座っている位置の高欄に掛ける座布団のように
厚手の刺繍を施したものです
伊達綱(だてづな)
屋台の四本柱の位置に着ける太い綱で金糸銀糸を編み込み豪華な雰囲気を出す飾りものです
本棒(ほんぼう)
屋台を担ぐ担ぎ手が肩を入れる主な棒
脇棒(わきぼう)
屋台を担ぐ棒だが屋台全体の安定を図る意味合いも含む担ぎ棒
泥台(どろだい)
屋台の休憩時の基礎の台座的なもので、地域によっては二分割にはずせるものもある
屋台の種類
屋台1画像
通常の屋台
一番多く見られる屋台は重さ1トンから1トン300ぐらいで、
担ぎ手は約50人から70人が必要となります。
屋台2画像
布団屋台
屋根の漆や白木の部分に装飾の布団が乗せて有るもので,
数的には非常に少ない形で重さはほとんど通常の形の屋台と変わらない。

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